まちなかパワースポット八箇所めぐり

更新日: 2020年9月25日

この記事は: 2020年9月25日に更新されたものです。内容が古い可能性がありますのでご注意ください。

御殿場のまちなかには、富士山ゆかりのスポットや「御殿場」「みくりや」にちなんだパワースポットが数多くあります。御殿場駅を起点として、まちあるきをしながら、気軽にパワースポットめぐりを楽しんでみてください。


新橋浅間神社(にいはし せんげんじんじゃ)

新橋浅間神社(にいはし せんげんじんじゃ)

富士山東表口(御殿場口登山道)の起点となる神社。主祭神は木之花咲耶姫命であり、天照大神、菅原道真などが合祀されている。

応保元年(1161)熊野衆徒の鈴木氏により創建、または建久4年(1193)源頼朝が富士の巻狩りをした際に創建と伝わる。

境内には、富士講の人達の記念碑や、御殿場口からの登頂100回記念碑などがある。

拝殿で奉納される獅子舞の起源は室町時代と伝えられる。


滝不動尊(たきふどうそん)

滝不動尊(たきふどうそん)

御殿場市の中心市街地にある露出した溶岩の割れ目から湧き出した清水が1mほどの滝になっている。本尊の大聖不動明王は童子形で憤怒の形相を表し、一切の悪魔を取り除きすべての衆生を教化して救済する仏であるという。

ここには鎌倉時代の名僧、文覚上人が修行した滝があったと伝えられている。


二枚橋浅間神社(にまいばし せんげんじんじゃ)

二枚橋浅間神社(にまいばし せんげんじんじゃ)

社記によると、大同元年(806)、坂上田村麻呂が社殿を造営と記されている。祭神は、木之花咲耶姫命。境内の森(二枚橋丘陵)はかつて東京帝室博物館(現東京国立博物館)の後藤守一氏により前方後円墳と認定され(泥流丘との説もある)、杉・樫・欅・椿などの老木が美しい森を形成しており、一角には御殿場地区の英霊を祭る忠霊塔もある。

境内入口には元首相石橋湛山の揮毫による「讃 勝又勝美翁」の碑がある。勝又勝美は安政2年(1855)御殿場市二枚橋生まれ。初代御厨町長であり、また、御殿場馬車鉄道創設発起人の1人であり初代支配人。産業や教育の振興等、町の基礎を固めた。


庚申寺(こうしんじ)

庚申寺(こうしんじ)

本尊の青面金剛明王像は、仏師として有名な定朝法師が富士登山50回の時彫刻したと伝えられる木像で、悪病特に結核などの病魔から逃れられると信じられてきた。

「庚申信仰」は道教に由来し平安時代にわが国に伝わったとされ、青面金剛明王とその使いである三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)を信仰し、60日に1度の「庚申」の夜、親類縁者近隣の人々が集まって、眠らずに過ごす(守庚申)。本寺は徳川中期以降、近在の多くの人々の信仰を集めたという。

境内には渡辺宗甫・宗斎や一雲齋一莖(いちうんさいいっけい)の筆子塚がある。筆子塚は寺子屋の師匠の遺徳を顕彰するため、子弟達によって建立される。宗甫は江戸後期、宗斎は幕末~明治にかけて、医師業の傍ら子弟の教育にあたった。一雲齋一莖は、幕末~明治初期まで近隣の子弟に読み書きや生け花を教えた後、華道宏道流の普及に努め、中興の祖と呼ばれた。


御殿跡・吾妻神社(ごてんあと・あづまじんじゃ)

御殿跡・吾妻神社(ごてんあと・あづまじんじゃ)

元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣氏を滅ばした徳川家康は、駿府から江戸への交通路を整備し、江戸往来の宿泊のための御殿地を物色し、当地を選んだ。翌元和2年(1616)4月家康は薨去されたが、幕府代官長野九左衛門清定は、当地の土豪芹沢将監に「御殿新町の御屋敷造営を滞りなくすすめること」を命じている。

この御殿跡に鎮座する吾妻神社には、東照権現(家康公)をはじめ五神が祭られている。神社には徳川慶喜公直筆の扁額が奉納されている。

境内には、「地名御殿場発祥の地」の碑や、市内他所から移設された「兜石」(源頼朝が兜を脱いで置いたと伝わる石)などがある。


宝持院(ほうじいん)

もとは二岡神社の神宮寺だったが、長禄2年(1458)小田原城主の大森氏頼が、若くして逝去された息女(章子)の菩提を弔うために現在の地に移し、名を宝持院としたと言われている。境内にはこの息女の墓が残されている。

下野国小山庄(栃木県小山市)の住人によって奉納された、文安2年(1445)8月の銘がある大日如来像がある。「奉富士山之大日一尊」と記されており、当時の富士信仰の一面を如実に示している。

武田氏・北条氏などの寄進状や、徳川家光の朱印状が残されている。

鐘楼の鐘は、「宝持院の晩鐘」として、俳諧師 牛翁により「御厨八景」の一つに挙げられた。現在の鐘は昭和36年(1961)に造られたもので、直径80cm・丈160cm。


神明宮(しんめいぐう)

神明宮(しんめいぐう)

沓間の神明宮周辺は、御殿場地方の名称「御厨」(みくりや)の中心となった地域とされ、このあたりを中心として、伊勢神宮に寄進された荘園「大沼鮎沢御厨」があった。御厨には必ず神明宮が勧請されている。

社宝として、大江山の鬼退治で有名な源頼光(金太郎として知られる坂田公時は頼光四天王の1人)奉納の鏡があり、寛和2年(986)と刻まれている。

沓間(くつま)という地名は建久4年(1193)に源頼朝が富士の巻狩をした時、神明宮で蹴鞠をした際に沓(靴)を社前に置いたという伝承からきているという。


藍澤五卿神社(あいざわごきょうじんじゃ)

藍澤五卿神社(あいざわごきょうじんじゃ)

鎌倉幕府の北条氏により執権政治が行われていた承久3年(1221)、後鳥羽上皇は政権を朝廷に取り戻そうと倒幕計画を進めた。これを知った幕府が直ちに兵を挙げ京を攻め落としたのが「承久の乱」である。首謀者である上皇は隠岐島へ流され、主だった上皇方の公卿や御家人を含む武士達が粛清された。藤原宗行は捕えられた5人の公家の内の1人で、京より鎌倉に送られる途中、鮎沢で最期を遂げたと「吾妻鏡」に記されている。

宗行は上皇の信任厚く、上皇に中国の帝王学の書「貞観政要」を進講するなど、学識深く文学に秀で多くの詩歌を残しており、地元の人々は藍澤神社を創建し祭ることとした。現在では、他の4人の公家、藤原光親・源有雅・藤原範茂・藤原信能を合わせて藍澤五卿神社として祭っている。

宗行卿の墓、五卿慰霊塔のほか、浩宮殿下がお立ち寄りになられたことを記念する記念樹が植栽されている。