解説
江戸時代の末、開国により富士山や箱根周辺には外国人が少しずつ姿を現し始めました。そして、時代は明治を迎え、箱根には多くの外国人が訪れるようになりました。彼らの目当ての一つは富士山であり、箱根から箱根外輪山の稜線へ上がり、乙女峠や長尾峠から裾野を広げた雄大な富士山の眺望を楽しみました。
明治22年(1889)は御殿場回りで箱根を越える東海道線が開通し、御殿場停車場が開設されると、御殿場は東海道線沿線で間近に巨大な富士山を見られる場所として注目されるようになりました。
明治の文豪夏目漱石の『倫敦塔』には「まるで御殿場の兔(うさぎ)が日本橋の真中へ抛(ほう)り出されたような心持ちであった。」という一文が出てきます。江戸っ子の漱石ならではの皮肉も込められているにしても、富士山麓の片田舎「御殿場」が一躍全国区に踊り出て世間に注目されるようになったことが文学作品からも伺えます。
また、人物の「バンディング」の項でも説明していますが、箱根まで足を延ばしていた外国人の中には箱根外輪山を越えて御殿場側へ下りてくる人たちも現れます。外輪山を下りた直下にあるのは、後に政財界などの著名人がこぞって別荘を構えた二の岡や東山という市内でも最も東寄りの地域です。
裏箱根と呼ぶべき立地と富士山の絶好の眺望、近代日本の動脈「東海道線」の沿線という好条件が明治という新しい時代と相まった結果、御殿場は別荘地としての歴史を歩み始めました。そして、その先駆けとなったのが、横浜に住んでいたバンディングの別荘に始まる二の岡の外国人別荘地「亜米利加(あめりか)村」でした。当初は二岡神社近辺だけだった別荘地は、次第に周辺に広がり、二の岡や東山を中心に御殿場は現在まで語り継がれる一大別荘地となりました。
亜米利加(あめりか)村
バンディングの別荘が先駆けとなって二岡神社近辺に成立した亜米利加村ですが、大正時代に入ると二岡神社との折り合いが悪くなっていきました。そんな窮地を救ったのが、華族の福岡秀猪子爵でした。福岡子爵の尽力により、二岡神社境内から少し離れた寺入という場所で宮内省が所管する御料地の払下げが叶い、亜米利加村を移転されることができました。福岡子爵は、亜米利加村の外国人にとってまさに恩人だったのです。
新たな亜米利加村では、背後の山から引いた水で水道が整備され、心の拠りどころとなる教会、プールやテニスコートなどの共同施設があり、別荘を所有する外国人たちはこれら施設の維持管理を共同作業で行っていたそうです。
しかし、亜米利加村の平穏な日々は長くは続かず、今度は日米の関係が悪化し第二次世界大戦に向けて時代が暗転していくなか、アメリカ人を主体とする亜米利加村の住民は帰国を余儀なくされ、日本を離れていきましたが、彼らは帰国に際し恵泉女学園・捜真女学校及びその関係者などに別荘を譲渡していきました。そして、昭和16年(1941)に二ノ岡荘組合が結成され、第二次世界大戦中から戦後を通して亜米利加村は二ノ岡荘として日本人が利用してきました。