[御殿場の伝承]富士の巻狩

市民会館第ホール第2緞帳

鎌倉時代、源頼朝が現在の御殿場市・小山町周辺で行った大規模な巻狩は、富士の巻狩と呼ばれています。市内には、富士の巻狩にまつわる旧跡や伝承が数多くあり、富士の巻狩と関係があるとされる地名も数多く残っています。

また、写真の市民会館大ホールの第2緞帳には、富士山を背景にして裾野に展開される巻狩の様子が、華やかな色彩と太糸の刺繍で豪壮に描かれています。これは、きやり地蔵尊で知られる上小林の東岳院に奉納されている「源頼朝猟富士野之図」を原図としています。

源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、名実ともに鎌倉に幕府が開かれたのは、建久3年(1192)。その翌年、この大規模な富士の巻狩が行われました。

ここでは、富士の巻狩とそれにまつわる伝承や地名を紹介します。

源頼朝

解説

平安末から鎌倉初め(1147〜1199)の武将で、東国に武家政権を開き鎌倉幕府の初代征夷大将軍となった人物。

清和源氏の流れをひく河内源氏で、後白河天皇の下で活躍した源義朝の三男。東国で生まれ育った生粋の坂東武者ではなく、京で育ち10代前半で朝廷に任官し、昇進していった貴族的な武士でした。

平治の乱(1159)で父の義朝が賊軍となり、権勢を誇っていた平清盛に追われる立場となります。父義朝が討たれ、頼朝も捕らえられますが死刑は免れ、永暦元年(1160)伊豆国に追放となります。

流人生活中の頼朝は、仏教に帰依し、亡父義朝や亡くなった源氏一門の菩提を弔う日々を送っていましたが、日々辛い監禁生活を送っていたという訳ではなく、伊豆地域の有力者から「名士」として一目置かれ、丁寧な扱いを受けていたといわれています。

治承4年(1180)以仁王が平家討伐の令旨を発し、諸国の源氏が挙兵。頼朝も伊豆で挙兵し、伊豆国目代の山木氏を討ち、相模国に進撃しますが、石橋山の戦いで大庭氏、伊東氏ら平家方に敗れて、真鶴から海路で安房国へ脱出。関東の武士団を引き入れて勢力を拡大しながら進軍し、鎌倉に入ります。

その後、弟義経らの活躍により、平家の軍勢を敗走させ、文治元年(1185)壇ノ浦で平家を滅亡に追い込みます。

妻政子の父、北条時政が代官として京に入り、頼朝が守護・地頭を設置することを朝廷に認めさせ、建久3年(1192)、朝廷から征夷大将軍に任ぜられました。

富士の巻狩

解説

征夷大将軍となり、名実ともに天下人としての地位を築き、鎌倉幕府を不動のものとした源頼朝。

そこで、鎌倉幕府の力を天下に示し、御家人や武士たちの士気を高めるために、狩りを兼ねた一大軍事演習を富士の裾野で実施しました。

現在の御殿場市・小山町周辺で行われた巻狩が歴史資料に初めて登場するのは、「吾妻鏡」に記されている建久4年(1193)5月のでの大規模な狩りです。

参集した家人、弓持、旗持、勢子などの数は総勢3百万人であったと書かれた本もありますが、これはあまりにも多く疑問が残ります。しかし、東国一円から御家人が家来を引き連れて参加したため、たいへんな数であったことは想像できます。

それでは、市内のどこを中心に狩りを行ったのでしょうか。

板妻から印野地区には、物見所や旗印が置かれたとされる塚の伝承が多く、勢子が獲物を追い立てたところであるといわれています。

また、仁杉・中畑周辺や富士岡地区と原里地区の境界付近には狩りと食事に関する伝承が多く、獲物を仕留め、食事や休息をとったところであるといわれています。

その他、兜石、ひづめ石、駒止の木や石などの伝承は市内全域に広がっています。馬に関わる伝承が比較的多いのは、騎馬を中心とする東国の武士団が数多く参加していたことを物語っています。

御殿場市・小山町周辺での巻狩は10日余りで終わり、舞台は富士宮市周辺に移りましたが、市内には多くの伝承が残っています。巻狩は当時の人々にとって、それほど衝撃的な出来事であったのでしょう。

その後、2代将軍頼家は当地で巻狩を3回行っています。

吾妻鏡(あづまかがみ)

解説

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王までの年代記という体裁で、治承4年(1180)から文永3年(1266)までの幕府の出来事を記した歴史書です。

富士野藍沢(ふじのあいざわ)

解説

富士野とは富士山麓を示し、藍沢(鮎沢や合沢とも表記される)は、御殿場市・小山町周辺を指していたかつての地名と考えられ、藍沢原と表現されることもあります。

「吾妻鏡」に、文治元年(1185)2月16日の源頼朝自身の行動として「山沢を歴覧の間、藍沢原において」という記述があることから、この時、藍沢が狩倉に設定されたという説があります。源頼朝やその側近が、富士の巻狩以前に藍沢原を訪れていたと考えられます。

狩倉(かりくら)

解説

狩りや軍事訓練を行う場であると同時に、支配者が統治する領域を示すものでもあります。この時代、狩倉に設定されていた藍沢原、那須野、三原野は、いずれも源頼朝の本拠地である関東とその外側の地域との境界・出入り口に位置しています。

権力者の狩りとは、鹿狩りを意味するとされますが、この場所で巻狩を行ったのは、支配者であることを内外に宣言する、政治的にも大きな意味があったといわれています。

狩倉図

富士の巻狩の伝承

解説

富士の巻狩に関わる御殿場市内の伝承をまとめました。

詳しくは下記をご覧ください。

富士の巻狩に関わる御殿場市の伝承

問い合わせ
御殿場市 教育部 社会教育課 
TEL:0550-82-4319
mail:shakyo@city.gotemba.lg.jp
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