[洋画家]大森明恍

大森明恍(おおもりめいこう)洋画家

解説

 

明治34年(1901)福岡県遠賀郡芦屋町の生まれで、富士山を生涯のモチーフとして描きました。本名を大森桃太郎といい、明恍の名のほかに海門という号を使用することもありました。幼い頃、絵画の道を志し、上京する東海道線の列車の窓から見た富士山に感動して、昭和8年(1933)東京から諸久保(沼田区)へ移住し、住居の近くに阿部正直博士の雲気流研究所があったことから正直博士と親しくなります。精密な写実画を描いたことで知られ、カンバスに碁盤のような線を引き、絵を描いたといわれています。郷土研究にも関心を持っていたことから『北駿郷土研究』への寄稿や、同紙に富士山の絵も描いています。高所気象観測に携わっていた野中到や、須山(現在の裾野市須山)の郷土研究家である渡辺徳逸などとも親交がありました。

諸久保から新橋、東山と住まいは変わっていきますが、昭和38年(1963)に亡くなるまで御殿場市で過ごしました。富士山画個展、富岳画個展など多数の富士山の絵を展示する個展を開いており、『愛鷹山行路之図』や『愛鷹紀勝』などの作品を残しています。

問い合わせ
御殿場市 教育部 社会教育課 
TEL:0550-82-4319
mail:shakyo@city.gotemba.lg.jp
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