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御殿場市の歴史

石碑

富士山と箱根山系に挟まれ、黄瀬川と鮎沢川の源を有する御殿場地方に人々が住み着き始めたのは、今から6~7千年前の縄文時代早期と呼ばれる頃であった。当時の人々が残した土器や住居の跡が箱根外輪山の中腹から多数発見されている。この頃は、富士山が盛んに火山活動をしており、噴火があると逃げ、おさまると住み着くということを何度も繰り返していたようだ。

弥生時代になって、この地方はあまり変化がなく、やがて稲作を中心とした農耕技術の伝播により、今まで山間に住んでいた人々は、稲作可能な沼沢地へ下っていった。その沼の縁に稲作を主とした人々が集団で住み始めたのは、古墳時代と呼ばれる頃からであったといわれている。この頃の代表的な遺跡として「中田遺跡」「大沢原古墳群」がある。

やがて、富士山麓一帯のあちこちに「むら」がつくられていった。人々の往来もみられるようになり、8世紀以降、律令制度による中央集権体制が確立すると、都と地方を結ぶ官道が整備されていった。当地方は、都と東国(相模以東の諸国)及び甲斐国を結ぶ古代東海道の要所であるために、駿河国で最も大きな駅、横走(よこばしり)駅が置かれた。この頃の代表的な遺跡として「永原追分遺跡」がある。

絵巻

ついで、10世紀から11世紀ごろにかけて、この地方は「大沼鮎沢御厨」という伊勢神宮の荘園となり、今でもこの地方を「みくりや」と呼んでいる。鎌倉時代に入ると、建久4年(1193)5月、将軍源頼朝による富士の巻狩りが行われた。市内には、この巻狩りに因んだ多くの伝説や地名が残っている。

戦国時代、この地は駿河・甲斐・相模の境界地帯として幾多の戦いに巻き込まれた。深沢城跡は、永禄12年(1569)と天正8年(1580)にかけて武田氏と北条氏が争奪戦を繰り広げた城である。関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。元和2年(1616)、沼津代官はこの地方の土豪「芹澤将監」に対し、家康が使う御殿の造営及びその周辺に新町を建設することを命じた。家康が実際に休憩所を使用することはなかったが、御殿を中心に御殿新町が生まれた。「御殿場」という地名はこの「御殿」に由来している。

寛永10年(1633)当地は小田原藩領に組み込まれ、以後その支配を受けることになる。当時、人々は田畑を耕作し、炭を焼き、薪・箕・笊などを売って生計を立てていた。しかし、宝永4年(1707)の富士山噴火による降灰は、田畑を埋め山野を覆い尽くした。噴火により甚大な被害を受けた当地は、小田原藩が自力の復興を断念し、幕府直轄領として関東郡代伊奈半左衛門の手によって復旧が始められた。

慶応4年(1868)明治新政府が樹立され、当地は小田原藩から静岡藩に編入された。明治4年廃藩置県が実施されると、静岡藩は静岡県となった。新しい時代の波は御殿場村にもガス燈を灯らせることになった。また、明治16年、富士山東表口登山道が開かれ、以後当地は観光地として大いに宣伝されるようになった。

明治22年は、当地にとっては画期的な年であった。2月1日東海道本線が開通し、御殿場駅が設置された。4月には御厨町をはじめ、富士岡村、原里村、印野村、玉穂村、高根村が発足した。明治31年には、新橋・須走間に御殿場馬車鉄道が走り、大量の物資が運ばれ、特に夏期には登山客で賑わった。

明治42年、山麓の大野原を陸軍演習場に使用することの協定が結ばれ、同時に滝ヶ原・板妻に廠舎(しょうしゃ)がつくられた。(後に駒門にもできる。)

大正3年、御厨町が御殿場町と改称し、その後は市の誕生まで、変化はない。この間、大正12年の関東大震災、昭和5年からの大恐慌、太平洋戦争と苦難の時代を経験する。

昭和28年9月「町村合併促進法」が制定された。これにより御殿場町、富士岡村、原里村、印野村および玉穂村が合併し、昭和30年2月11日人口約3万8千人の御殿場市が誕生した。翌31年1月1日高根村が編入され、翌32年9月1日小山町の古沢地区が編入され現在に至っている。

市政発足後、当地は順調に発展を続け、昭和40年代の高度経済成長と、特に昭和44年東名高速道路の開通により市の様相が一変した。わずかな地場産業と、農業観光が主であった当地に年々各種企業が進出し、昭和59年には駒門工業専用地域に10社余の優良企業が誘致された。また、土地区画整理事業についても昭和59年に二の岡地区が完成し、続いて東田中・鮎沢地区も実施され、さらに駅前再開発事業など地域開発も進んだ。こうした開発に伴い人口も次第に増加し、平成6年には8万人を超えるに至った。

平成13年度には、御殿場市第三次総合計画が定められ、21世紀のまちづくりが始まった。

関連リンク

御殿場資料館

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